第65話 「探偵の心の闇と新たな光」

久遠乃愛は、自宅の書斎で推理小説を読みふけっていた。すっかり日が暮れ、外は騒々しい音が響いている。窓の外からは、近所の人々の笑い声や、子供の遊ぶ声が聞こえてくる。彼女は一瞬その音に耳を傾け、ふと思った。普通の学生生活と、彼女の探偵生活を重ね合わせてみて、どちらが今の自分にとってより高価値なのだろうかと。しかし、そう考えていると、ふいに携帯電話が鳴り、乃愛の思索は途切れたのだった。

電話の主は、雪村彩音だった。彼女は乃愛の幼馴染であり、活動的な性格の持ち主。乃愛とは違い、彩音は社交的で、大学の様々な人々とつながりを持っている。そのため、事件を持ち込むことも少なくないのだ。

「乃愛ちゃん!今すぐ、バイト先に来て!大変なことが起きたの!」

彩音の声は焦りを含んでいた。乃愛は急いでジャケットを羽織り、彩音の言葉が示す先へと向かうことにした。彼女のバイト先は、町の中心部にある小さなカフェだ。スイーツが人気で、毎日多くの客で賑わっている。

カフェに到着するや否や、乃愛は暗い雰囲気に包まれた店内に目をやった。照明が暗く、通常の開店準備を整えた状態とは思えない。奥の方に彩音が立っているのが見えた。彼女は不安そうな表情を浮かべ、何かを説明しようとしている。

「乃愛ちゃん、これ見て!」

彩音はカウンターの上に広げられた書類を指差した。そこには企業の内部告発に関する情報が詳述されていた。何か大きな動きがあるようで、彼女の仲間の一人がこれに関与しているらしい。

「どうやら、高齢の画家がこの件に深く関わっているみたい。彼はいつもこのカフェで絵を描いているけれど、最近はおかしな行動を取っているらしいの」

乃愛は目を細めながら、その書類に目を通した。内部告発が現れたことで、カフェは閉店後のこの時間帯でさえ、緊張感に包まれているようだった。彼女は思わず唇を噛む。

「どうする、乃愛ちゃん?」

彩音の言葉に乃愛は冷静さを保ちながら答える。
「まず、この手がかりを整理して、事件の核心に迫る必要がありますわね」

その言葉に、彩音は頷く。乃愛は自らの勘を働かせ、状況を整理し始めた。普段ならのどかなカフェも、内部告発の一件によって変貌を遂げてしまったのだ。

「まずは、現場検証ですわ。どうやら、最近ここであった出来事が何か関係しているかもしれません」

彩音はその言葉に力を得たようだった。
「じゃあ、一緒に行こう!」

ふたりは店内を警戒しながら探査を始めた。店の裏手には入ることができない特殊な室があり、そこが気になった。乃愛は一瞬、その部屋の存在を考えるが、必要があればいつでも開けられることを知っていた。彼女は他の手がかりを求め、カフェの中を進む。

乃愛はカフェの窓を見つめ、何かが引っかかる感覚を覚えた。でこぼこの窓ガラスには、かすかな指紋が付着している。それを指で触れ、指先に感じる微かな感触から、彼女は何かを感じ取った。

「彩音さん、窓のガラスを見て。何かがあるわ」

彩音は窓の近くに移動し、乃愛の指先の指摘に従った。ふたりはその周辺をくまなく調べるが、明確な証拠は見つからない。しかし、指紋のセットによって、奇妙な感覚が乃愛の心を捉え続けていた。

「これ、もしかしたら直接的な関与があるかもしれませんわ。なんでこんなところに指紋が?」

この言葉に彩音は興奮し、すぐに行動を始めた。
「じゃあ、引き続き聞き込みをしてみよう!」

活気を取り戻した彩音の無邪気さに、乃愛も気を引き締め直す。今、この瞬間は長い探偵としての気持ちを味わう機会なのだと、乃愛は心に決めた。

彼女たちはカフェの近くに常連客が集まるブランコの公園に足を運び、この騒動に関して何か有力な情報を求めた。瞬時に共通の話題ができ、多くの人々が話しかけてくれた。なかでも一人の男性が、画家について何か知っているという。

「彼は最近おかしな絵を描いているんだって。お世辞で言うと、まあその、暗いよ。前よりずっとね」

乃愛はその言葉に注目する。これは有力な手がかりに違いないと感じ、さらに質問を続けた。
「具体的に、暗い絵とは?」

「そうだな、血や影ばかりの絵とか。見てると思わず背筋が凍るよ。ただ明るい色を使わないんだ。なんでこんな絵を描くのか。それが不気味で不安なんだ」

修正が込められた表現の中に、疑念が芽生えているようだった。乃愛は胸の内に心の闇を抱くような絵を想像しながら、少しだけ気味が悪くなった。

「なるほど、彼は自分の内面を表現しているのかもしれませんわね。ここ数年の闇みたいなものが、どこかで爆発しようとしているのかも」

彩音もその意見に賛同し、同時に不安を抱いているようだった。
「乃愛ちゃんが言うとおり、彼の絵には何か特別な秘密が潜んでいそう」

その時、何かがふと乃愛の頭をよぎった。彼の承認欲求や、人々に見てもらいたいがゆえの行動。乃愛は、それが妄想なのだと感じた。同時に、画家の心の奥底が覗き込まれるような感覚を持っていた。

「この社会で承認されず、彼は独自の表現を見つけようとしているの。でも、だからといって他人を害するのは間違いですわ」

彼女はその言葉に重みを持たせた。状況は進む中で、彼の心の闇が何かに変わってしまったのかもしれない。乃愛はその推理を深め、画家の居場所に向かう決意を固める。

ブルーグレーの夕焼けをバックに、彼女たちは画家のアトリエへと足を運んだ。途中、誰かの視線を感じた気がして振り返ると、思わず息を飲み込んでしまった。そこには、推測通り彼であろう画家の姿があった。無表情で立っている彼から、怖さを感じたのだ。

「あなたは…、久遠乃愛さんですね?」

彼の冷静な声に、乃愛は一瞬驚いた。自らの名前を知っている相手に、どうして良いのかわからなかっただけでなく、彼の目には火が宿っているように見えた。

「あなたは、このカフェで何があったのかご存知なのでしょうか?」

意を決して乃愛は尋ねる。彼はずっと無表情だが、その瞳の奥には波立つものがあった。何かを隠していることを彼女は感じた。

彼はしばらく沈黙した後、ようやく口を開いた。
「この世界には、声なき者たちがいる。私はその者たちの心を描いているのです」

乃愛はその言葉に、ますます謎を感じた。しかし、暗い運命から逃れられない様子の彼に、同情を覚えるとともに不安を感じた。

「あなたが描く世界は、果たして真実なのでしょうか?」

彼は微笑んだ。
「真実なんて、他人にとっての真実さえあれば、他の者たちには必要ありません」

乃愛はその瞬間、彼の本心に触れた気がした。彼はただ、自分の観念を承認してほしいとは思っていなかったのか。乃愛は、不安が胸の奥に忍び寄るのを感じた。

「でも、それは他人を襲うための言い訳になってはいけませんわ。あなたの行いは、あなた自身の命を脅かしかねません」

彼の目が一瞬揺れた。その瞬間、乃愛は強い直感を得た。彼の背後にいる人々も同様の葛藤を抱えているに違いない。報われない命の上でこそ、彼は描き続けるかもしれない。

そこで乃愛は思い切って、彼に手を差し伸べた。
「どうか、私に、この闇を解きほぐさせてください。あなたの気持ちを描いてみる必要があるわ」

画家は動かなかったが、目の前の乃愛の真摯さに触れているようだった。彼の沈黙は、次第に崩れ去るかのような感覚に変わっていく。

そうして無の瞬間が続き、ついに彼は重い口を開いた。
「私の心の闇は、決して他者を傷つけるものではない。しかし、証明されなければならないのか」

乃愛はその証明の瞬間を捉え、突然目の前の彼の心の奥が見渡せた気がした。彼は自らの中に潜む妄想の結果を恐れ、過去の自分に向き合おうとしていたのだ。自らの価値を見出せずにいる彼を解放するため、乃愛は全力を尽くす決意を固めた。

彼女は立ち上がり、空に向けて叫ぶかのように言った。
「自分を許し、他人を傷つけることは少しもありませんわ!それがあなた自身の道であり、正しい道ではありませんか?」

彼の冷たい表情がゆらりと変化し、微かな哀しみが浮かんだようだった。表情の変化に、乃愛はこの瞬間を忘れられないだろうと確信した。彼の新しい物語が始まる。彼の道が開かれ、明るい未来を見つける瞬間に違いないと感じた。

この事件の真実が解かれたことに安堵する一方、乃愛は新たな興奮が体を駆け抜けるのを感じていた。罪の対価は、彼が報われることでもあったのかもしれない。彼女は内なる静けさを求め、感覚を研ぎ澄まし続けた。

この事件が教えてくれることは、新たな扉が開かれる瞬間でもあるのだ。すべての心に光が差し込むように、それぞれの物語が主張される。

乃愛は、彼女の道がどれほど複雑なのかを思いながら、再び真実に近づいた喜びを感じたのだった。それが彼女の探偵としての生き様であり、今後も探求していくものだ。

やがて彼女たちの姿が画家のアトリエから消える頃、彼の心の闇は少しずつ明るくなっていくことでしょう。彼女たちの探偵生活は続くことを、いつかの光の中で迎えることを楽しみにしていた。