黒川梨乃は、掃除当番の時間が近づくにつれて鼓動が高まるのを感じていた。学校の一角、彼女たちの教室では、クラスメイトが雑談や掃除用具を取りに行く準備をしていたが、彼女の視線はただ一人、村上和真に向けられていた。いつも穏やかな笑顔を浮かべている彼は、まるで周囲の騒音が耳に入らないかのように、のんびりとした様子で教室の隅にいる。
『今日こそ、和真くんに思いを伝えなくては…。でも、どうしたらいいのかしら』と、心の中で繰り返す。梨乃は表向き、冷静で優等生のイメージを保っていたが、内心はドキドキしていた。掃除当番で二人きりになることは、彼女にとって特別な機会だった。チャンスを逃すわけにはいかないのだ。
「黒川、ずっとどこ見てるの?」
友人の声で現実に引き戻される。ふと気づくと、周りのクラスメイトたちが掃除用具を持ち上げている中、梨乃だけが和真を見つめていたことに焦ってしまった。彼女は慌てて自分の手元に視線を落とし、その反応がクラスメイトたちにバレバレだという事実に少し赤面する。『絶対にカッコ悪い、私…』と思う。
掃除当番が始まると、村上と梨乃は自然に一緒に行動することになった。教室の机を移動するのを手伝い、次第に彼の近くに寄れるのが嬉しかった。和真は、特に掃除に積極的に取り組むわけでもなかったが、彼女が仕事をする際には必ず手を差し伸べてくれる。
「黒川、これ手伝うよ」
とその優しい言葉が、梨乃の心を温める。
「和真くん、ありがとう。すごく助かるわ」
と、彼女ははにかみながら言った。
「うん、みんなで協力しないとね」
と笑顔を見せる和真。彼のその無邪気さには、思わず梨乃の心がじわりと溶けていくのを感じる。『この瞬間がずっと続けばいいのに、と思ってしまう』と彼女は思う。目の前の彼は、自分にとっての天使のようで、心の支えそのものだった。
掃除が進むかと思いきや、意外にも和真は窓際に寄って窓を開けることに夢中になっていた。その姿を見つめ、梨乃は心の中で
「そこは大事じゃないんだから、もっとこっちを見てよ」
と叫びたかった。だが、そんなことができずにただ彼を見つめるしかなかった。『何を考えているのかしら、和真くんは…』
「黒川、風が気持ちいいね!」
和真が窓から入ってくる風に顔を向けた。彼の嬉しそうな表情を見て、梨乃は心の中で小さく動揺する。『そんな単純なことで満足できるなんて、和真くんは本当に…』と、彼女は微笑む。だが、その微笑みの陰には、彼への独占欲が深く根を下ろしていた。
「でも、窓は開けっぱなしにしちゃダメよ、ほら、埃が入ってきちゃう」
と、正論を口にしつつも、心の中では彼の無邪気さをどうにかして保護したいと願っていた。梨乃の発言に、和真はただうんうんと頷いている。『こうやって彼を見ていると、もっともっと近くにいたい…』と、思う一方で、心の中の独占欲がむくむくと活動を始めた。
掃除はあっという間に終わり、梨乃は和真と共に余った時間をどう使うか悩んでいた。
「これからの時間、どうしよう」
と言いながら心の中で『今がチャンス、思いを伝えなくては…!』と自分に言い聞かせる。
「和真くん、少し話があるのだけれど…」
と、彼女は勇気を出して口を開いた。その瞬間、和真の顔が明るくなり、
「うん、何でも聞くよ」
と返ってきた。彼の優しさに、梨乃は少し緊張しながらも思いを伝えようと決意する。
「実は…和真くんにずっと伝えたいことがあったの」
言葉をぎこちなく関節に詰まらせるが、和真は真剣な表情でこちらを見る。
「ん?どうしたの?」
彼の無邪気な態度が腹立たしいほど愛らしい。
『こんなときなんでこんなのんきにしているの?』という葛藤に苦しむが、思い切って
「実は、私…和真くんが好きなの…!」
と告白してみる。ぱっちりした瞳がおおきく見開かれ、しばし沈黙が流れる。彼女は自己嫌悪に陥る前に和真の返答を待っている。
「え、何て?黒川、冗談だよね?」
その言葉を聞いた瞬間、梨乃の心は何かに踏まれたような気持ちに陥る。『やっぱり分かってくれないのね…』彼女は深い失望感に襲われたが、同時に和真のその反応に少しだけ笑みがこぼれた。
「私は本気よ。和真くんのことが好きなの…!」
「お願い、少し考えてみてほしいの…」
それを言うと彼を見つめたまま、全てを彼に委ねた。
和真は
「そっか、黒川がそう思ってくれてたなら、嬉しいけど…」
と気持ちを汲んでくれるような言葉を続けた。
「俺、あまりそういうことは気にしない性格だからさ。でも、友達としては、すごく大切だと思っているよ」
『友達って…!』心の中で叫ぶ。その言葉は彼女にとって苦痛だった。『もう少し素直になってくれれば、私の気持ちを分かってくれるのに…!』しかし天然な彼に、その想いはどうしても通じないでいるようだった。
しかし、和真は気ままに冗談を言い続けていた。
「そういえば、黒川がお弁当を作ってくれたこと、すごく美味しかったよ!あれ、誰かのために作ったの?」
梨乃は、和真のその言葉に心がふわりと温まる。
「それは、和真くんのために作ったの。それだけは本当に、和真くんに届けたかったから…」
彼女の顔が赤くなるのを自覚しながら、急いで心の中の色々な感情を押し殺すが、ほのかな甘さが彼女の中を回り始める。
「そうなんだ、ありがとう!黒川、お弁当の星人だね」
と、和真が笑って言う。その無邪気な笑顔を見て、梨乃の胸は高鳴る。
「あは、そ、そんなことないですわよ」
と、彼女は照れ隠しでイジけた口調にしてみた。
掃除当番の時間が終わりに近づくと、彼女の芯にある想いや意思が少しずつ揺らいでいく。やはり和真の自然体には抗えそうもない。だが、その無邪気な彼を見ていると、彼女の心に漂う感情は重すぎて苦しい。
「じゃあ、また今度、お弁当持ってくるね」
と言いながら、彼にもう一度チャンスを与えてみようと心に決める。少しずつ、彼を振り向かせるための努力を重ねる日々を思い描く。
この日の出来事は、梨乃の心の山を超えて進む足を止めさせない。逆境の中でも、彼への想いは消えないと、内なる自分に誓う。天然男子高校生への独占欲は、まだ彼女を支え続けていた。彼女の恋は、この先どこへ進むのか…それを知ることができる日は、一体いつになるのだろうか。
掃除当番で過ごした短い間に、梨乃は再確認する。彼との毎日は、もしかしたら特別な意味を持つのかもしれないと。次なる一歩を踏み出す勇気を、これから持ち続けることができればいいと思っていた。そう心に夢を描きながら、梨乃は彼の傍にいることで今日の一日を締めくくる。