黒川梨乃は、今、絶好のチャンスを迎えていた。ようやく来た修学旅行。自由行動の時間、クラスメイトとは別行動を取ることに決め、彼女の心は舞い上がっていた。もちろん、これにはわけがある。同じクラスの村上和真と一緒にいる時間を少しでも長く持ちたかったからだ。
「和真くん、たくさん楽しみましょうですわ」
そうつぶやきながら、梨乃は彼の後ろをついて歩いた。薄曇りの空と、少し肌寒い風が彼女の心をもり立ててくれる。和真は、彼女の言葉には気が付かず、ただ見知らぬ街並みを探求するように、のんびりと歩いている。
「梨乃、ここに行ってみようよ」
和真が指さした先には、可愛らしい小さな動物園があった。彼の楽しそうな声が、梨乃の心に何か暖かいものを灯す。彼にとっては、何気ない言葉かもしれないが、梨乃にとっては心臓が高鳴る瞬間だった。
「良いと思いますわ、和真くん!」
そう言うと、彼女は彼の隣を歩くため少し急ぎ足になる。自分の心臓の音が大きく響く。
「こ、このチャンスに、密かに想いを伝える方法を考えないと…」
。
動物園は、予想以上に賑わっていた。可愛らしい小動物たちが訪れる人々の目を引き、和真も楽しんでいる様子で笑顔を浮かべている。それを見つめながら、梨乃は内心ドキドキしていた。
「和真くん、こっちに来て見てくださいですわ!」
彼女は興奮しつつ、可愛いウサギの展示を指さした。ウサギたちが、フワフワの毛皮を揺らしながら元気に跳ねている姿が、彼女に癒しを与える。そして、和真もその魅力に引き込まれていった。
「ほんと可愛いな。梨乃も好きなんだね」
彼の言葉に、梨乃の心はますます高揚する。彼の優しい眼差しが、彼女に特別な意味を持つ。和真の笑顔は、まるで太陽のように温かい。
「私も可愛さを重視するのが好きですわ。でも、和真くんの方がもっと素敵ですわよ…」
その言葉は、もはや梨乃の心の中で渦巻いていた。彼に告白するチャンスを感じながらも、ためらいがどうしようもなく彼女を包み込む。しかし、この機会を逃すべきではない。
「ところで、少し迷子になりそうな予感がするですわ」
梨乃がそう言うと、和真は不思議そうに彼女を見る。全然気付いていない、何のことか全く理解できないようだ。
「うーん、危ないなあ。今のうちに彼に言わないと…」
そう思っていると、梨乃は一瞬の隙に和真を追い越してしまった。彼の近くにいるつもりだったのに、彼に気を取られてつい自分の足が先走ってしまったのだ。
「梨乃、こっちにいるよ!」
和真の声が聞こえた。振り返ると、彼が少し離れたところに立っている。彼の表情は不安そうだ。
「どうしよう、いいチャンスなのに…」
彼の元へ戻りながら、梨乃は思いを巡らせる。これもまた、彼との距離を縮めるための良い機会かもしれない。少しでも彼に近づきたい。このままでは無駄に彼を見失ってしまうかも…
「も、もう一度近づこう…」
折り返し、梨乃はそれを実行に移す。一歩一歩、和真との距離を縮め、彼の笑顔を見つめる。しかし、そんな意図とは裏腹に、動物園の奥は複雑な道になっていて、明らかに方向感覚を失っているのだ。
「梨乃、大丈夫?」
和真が心配そうに声をかける。やっぱり、彼は優しい。恥ずかしいと言うわけではないが、気を引きたい一心で彼女はドキドキが止まらない。それでも、彼の笑顔を見ることができるのなら…
「振り乱れないで、平静でいなきゃ」
彼女は心の中で自分を落ち着かせる。二人でなければ見えない風景、それを心に留めながら、周囲を見渡してみる。
「これでは、昔からの迷子になってしまう…」
「和真くん、一緒にいるはずなのに、どうしてこんなにも分かれてしまったのでしょう」
梨乃は内心焦りながらも口に出し、彼の反応を伺う。
「彼に本当に迷子になっていることを知らせなければならないかしら…でも、まずは楽しい時間を続けるべきかもしれない」
「梨乃、こっちだよ!」
彼が再び声をかけると、その音が彼女の心に響く。迷っているのは自分だけ、彼は自分を心配している。心強いサポートをしながら、彼女はそのまま後を追った。
動物園の中は、他のクラスメイトの姿もちらほら見えた。しかし、彼女の視線はただ一人、和真の後ろ姿に集中している。それに、今までの密かな想いを伝えることができたら…彼と一緒にいれる時間がもっと長くなるかもしれない。
「ねえ、和真くん、ちょっといいですか?」
そう言いながら近寄ると、彼は振り返り、少し驚いた表情を見せた。すぐに笑顔に戻るが、その変化が彼の誠実さと天然さを同時に感じさせた。まさに彼が彼女にとっての太陽であることを、再確認する瞬間だった。
「どうしたの、梨乃?」
「それは…少し、言いたいことがあったのですわ」
彼女は意を決して、彼に近づく。
「二人っきりの時間を増やしたいのですわ。だから、迷子になってしまったのよね」
「迷子?でも、ここには案内板もあるし、みんなもいるから安心だよ」
彼のその言葉は納得がいかない。
「そう、私たちはいても、今は和真くんともっと特別な何かを持ちたいのですわ」
「特別な…?」
梨乃はその言葉を待っていた。彼がどのように反応するのか、期待で胸が高鳴る。彼の目からは、何か気付いている様子は全くない。思わず、彼の反応を見ながら首を傾げる。
「またすれ違ってしまうのかしら…」
「も、もっと色んな所で一緒に居たいと思っているの、和真くんと…」
「え、そっか。そしたら一緒に散歩でもすればいいよね!」
彼にとっては、単なる提案のようだが、次第に彼女の顔が赤くなる。この間、その言葉が持つ意味に気づいてほしいと思うが、和真は全く何も感じ取っていないのか。
「でも、迷子になって別れるのかな?それは、梨乃が気になるな」
その言葉に一瞬心がざわつく。迷子に関する不安を和真が持つ瞬間さえ、彼女は何故か安心感を覚えた。
「それは、私が何とかするですわ」
彼女は一瞬最初の心配を打ち消すことに決めた。今は、彼との毎分毎秒を大切にする時間を持つことだけを考えるべきだ。
「おお、見てあの動物!一緒に行こうよ、梨乃!」
彼の視線が向けられた先には、色とりどりの小さな動物たちがたむろしていた。その瞬間、梨乃はすぐに笑顔で彼に続く。
「楽しい時を確実にできるはずだわ」
あっという間に、彼女たちは道を進み、そのまま他のクラスメイトと合流した。和真の表情は相変わらずの優しさに溢れている。
「梨乃、楽しかったね。お弁当も一緒に食べたし、これからどこ行こうか?」
和真の声は、まるで彼女の心臓に直接響く。例え彼女の密かな想いが伝わらないことがあっても、彼の優しさは変わらない。彼女はその中で、更なる勇気を見つける。
「和真くん…もっと一緒にいたいと思ったけれど、これからの時間の中でも言いたいことがあったの」
口に出す度に、心の奥深くで不安が渦巻く。それでも心に浮かぶものを大事にしたい。彼との距離をこじ開け、一歩踏み出す勇気を感じながら、その気持ちを彼にがっしり握りしめた。
「私のことを、もっともっと知ってほしいのですわ」
その言葉に、彼は意外そうな表情を浮かべて、大きな瞳でじっと彼女を見る。
「本当に?梨乃がそんなことを」
ほんとごとに、彼は嬉しそうである。彼女はさらに力を込める。
「私が思うすべてを、和真くんに知ってほしいの。それは、いい意味で言われることなのですわ」
和真の鼻先まで、やっと自分の想いが届いたのだろうか。彼は少しずつ理解すると、しっかりした口調で返事をしてくれた。
「そっか、梨乃のこと、もっと知りたいと思っているよ」
梨乃は嬉しさで頬を緩ませる。少しずつ彼にも通じる想いがあるのかな?それを実感する間に、彼女の心の中は希望で満たされる。この瞬間ほど、自分にとって大切な時間はないのだ。
と、そのとき、突然後ろから声がかかった。
「和真、お弁当食べに行こうぜ!」
振り向くてみると、クラスメイトたちがやって来た。普段の気恥ずかしさが少し薄れ、彼女の心が興奮していく。
「多分このまま行くのが、まさにお弁当の時間ですわ」
和真は笑顔を浮かべ、柔らかく言った。
「いいタイミングだね、梨乃。一緒に行こうか」
彼女は、その瞬間、心の中が明るくなった。周りの仲間を気にしつつ合わせ、どんな状況でも彼と一緒にいることができる喜びが、何よりも貴重だと感じたのだ。
「和真くん、もちろんですわ!」
彼と一緒に行動しながら、心の中で少しずつつながってきた想いを感じながら、これからの未来を思い描いていく。修学旅行の思い出になり、それだけではなく、自分の密かな恋心も果たすことができるかもしれない希望を持ちながら。
この旅の終わりに立つ彼の姿を、ずっと心に刻むことになる。彼との時間が確実に特別なもので、未来に向けての第一歩となったのだから。どうか、次のステップへ進む勇気を持てますように。彼の視線を心の奥底まで受け入れられたことで、梨乃は自分の感情がさらに深まったのだから。