久遠乃愛(くおん のあ)は大学の講義を終え、いつものようにキャンパス内の食堂へ向かっていた。彼女は冷静でミステリアスな女性で、周囲の視線を一身に集めるロングストレートの黒髪が特徴だ。彼女の頭の中には、文学や論理学の知識と共に推理小説の世界が広がっていた。探偵としての自分を誇りに思う彼女にとって、その日は特別な日になるとは思ってもいなかった。
「乃愛ちゃん、待ってー!」
彼女の幼馴染、雪村彩音(ゆきむら あやね)が彼女を追いかけて小走りにやってきた。明るい茶髪のボブカットがまるで陽光を吸収するかのように輝いている。彩音は、乃愛にとって欠かせない相棒だ。性格は天真爛漫で、人懐っこく、まるで太陽のような存在だが、時には彼女のピュアさが乃愛にとって頭痛の種になることもある。
「今日はお昼に何を食べるの?」
彩音は笑顔を振りまきながら尋ねた。乃愛はいつものように冷静な表情で応じる。
「特に決めていませんわ。ただ、何か美味しいものが食べられれば満足ですわね」
彼女たちは食堂のテーブルに腰を下ろし、今日のランチを選ぶためのメニューを眺めていた。食堂は学生たちで賑わっており、食べ物の香りが漂っていた。その瞬間、彩音の目に一つのバッグが飛び込んできた。
「ねえ、あのバッグ、素敵じゃない?」
彩音が指差したのは、目の前のテーブルに置かれていた華やかなバッグだった。しかし、その瞬間、悲劇が発生した。
「ちょっと、見て! あの人!」
彩音の声が緊張感を持って響く。乃愛が視線を向けると、ちょうどバッグを持っていく影が目に入った。あまりにも速すぎる動きで、それに気づいているのは誰もいない。乃愛は瞬時に立ち上がり、バッグを奪った背後の人物を追い始めた。
「待ちなさい!」
彼女の声が食堂内の喧騒にかき消される。バッグを奪った男は、混雑した食堂の中をすり抜けるように走り去っていく。乃愛は彼の後を追いかけるが、彼の動きはすばしっこく、すぐに人混みに紛れてしまった。
「乃愛ちゃん、もう少しで捕まえられそう!」
彩音も彼女を追いかけていたが、乃愛の冷静な判断は彩音に力を与えた。
「急がないと、逃げられてしまいますわ!」
二人は、大学のキャンパスを縦横に駆け回っていた。しかし、男の姿は見えず、どこに行ったのか分からない。やがて、乃愛は誰もいない裏道にたどり着く。そこには、突然消えたような静けさが漂っていた。
「ここにいるはずよね……」
乃愛は周囲を冷静に観察する。暗い路地の奥に小さなゴミ捨て場が見える。そこに何かの手がかりがあるかもしれないという予感がした。二人はそのゴミ捨て場に近づき、横目で周囲を伺った。
「あれ、見て! ゴミ箱の中に何かある!」
彩音が指差したのは、ゴミ箱に捨てられた一枚の封筒だった。それは明らかに不自然に見えた。乃愛はゴミ箱に手を伸ばし、その封筒を引き出す。中には、色あせた紙が数枚入っていた。
「これ、どういう意味なんでしょう?」
乃愛は封筒の内容を読み上げる。
「『教師や親への反抗心』」
。突然の言葉に驚きの表情を浮かべる彩音。
「反抗心? 何のこと?」
乃愛は封筒を指先でかざしながら、考え込んだ。反抗心を持っている人物が、あのバッグの持ち主にどんな関係があるのだろうか。推理を進めるため、乃愛は再び冷静さを取り戻した。
「もしかして、あの男性がこの封筒の持ち主かもしれませんわ」
彼女は思考を巡らせる中で、ふとある人物の存在を思い出した。大学近くに住む高齢の画家、かつて彼女たちが何度か依頼を受けたことがある人物だ。彼の生活は一見贅沢に見えるが、周囲の人々との関係はとても複雑だった。多くの人に認められたいという強い欲望の裏に、心の闇が潜んでいるように思えた。
「警察に通報したほうがいいのかな……でも、彼は本当に犯人なのかしら」
乃愛が悩んでいると、彩音が何かに気づいた様子で声を上げた。
「乃愛ちゃん、彼の家を訪ねてみない?もしかして、バッグや封筒の手掛かりがあるかもしれないよ!」
「それはいい考えですわね、彩音さん。いっしょに行きましょう」
そう決めた二人は、画家の家へと急いだ。彼は周辺のアートコミュニティで知れ渡っており、時折個展を開いているが、最近はあまり姿を見かけなかった。家の近くに着いたころ、少し戸惑う気持ちがこみ上げる。
ドアをノックすると、しばらくして静かな足音が響き、ゆっくりとドアが開いた。
「誰だい?また取材か?」
しわの寄った顔で現れた画家は、驚いたように二人を見つめた。乃愛は毅然とした態度で問いかけた。
「実は、お伺いしたいことがありまして……先日、学食でバッグが盗まれる事件がありました。その封筒が、あなたのものだと考えているんですわ」
彼の目が一瞬、鋭い光を放った。彩音はその反応を見逃さなかった。
「ええと、その封筒に書かれていた内容が気になります。あなたはその言葉に心当たりはありますか?」
一瞬の沈黙が流れる。画家は微笑を浮かべながら、彼女たちの問いにゆっくり答えた。
「反抗心? そんなものはどこにでもあるものだよ。しかし、それをバッグを盗むことに使うだなんて、信じられない」
乃愛は彼の瞳を見つめ、確信に近づいていた。噂に聞く彼の過去や親との関わり、社会との対立がこの事件の背景にあるのかもしれないと。
「でも、どうしてあのバッグなのですか?それには何が入っていたのですか?」
画家は少し考え込むようです。
「うーん、最近の私は若者との関わりに疲れていて……それこそ、もう少し自分の世界に閉じこもりたいと思っていたんだ。しかし、あのバッグは一時的に心を刺激したよ」
乃愛は彼の言葉の裏に潜む意味を探り始める。彩音もまた、その様子を興味深く見守っていた。
「あなたは、自分の生活に満足しているのですか? それとも、何か満たされない思いがあるのですか?」
画家は目を細め、静かに答えた。
「若者たちの期待に応えようとは思ったんだ。しかし、いい絵が作れる環境ではなかった。だから、誰かのバッグに興味を持ってしまったんだろう」
乃愛の頭の中で、様々な情報が重なり始めた。そして、その瞬間に彼女は驚くべき推理の答えに辿り着いた。
「あのバッグには、あなたが求めていたひとつの何かが豊富に詰まっていたから……」
画家の表情が険しくなる。乃愛はその反応を見逃さず、すかさず続ける。
「つまり、あなたがバッグを盗んだのは、その中にある素敵なものを手に入れたかったからですか?」
彼は無言だったが、その表情がすべてを物語っていた。彩音も黙り込む。
ついに乃愛が自らの推理を告げた。
「犯行の動機は、高齢者特有の孤独感や反抗心。それを満たすために他人の物を手に入れることで、自分の内なる欲求を埋めたかったのですね。それがこの事件の真実!」
瞬間、画家は目を見開く。
「そんなことが… 僕の心の奥に潜んでいたなんて…」
その時、警察のサイレンが遠くで鳴り響き始める。無意識のうちに動く画家を追い詰めて、乃愛は一歩踏み出す。
「逃げるつもり?あなたの心の内を見つめ直すまで、どんな結果になっても逃げられませんわ。今こそ向き合う時ですのよ」
逃げる道に目が向いた彼は、それでも冷静さを取り戻していた。心の中の葛藤を感じながら、穏やかな声で呟いた。
「このままでは、私の心は傷だらけのままだ」
時間がかかるかもしれないが、画家は自らの過去と向き合う決心をしたようだ。警察が到着し、彼は穏やかに彼女たちに目を向ける。
「ありがとう。ぜひ、また会って話をしよう」
乃愛は微笑んで頷いた。
「そうですわね。お待ちしております」
その日、乃愛と彩音はカフェの隣に座っていたバッグを奪った男が、結局は求めているものを走り去っていたことを語り合いながら、確かに一つの事件を解決したのだった。彼の目の奥に、新たな希望が見えたことが印象的だった。
二人は、これからも共に問題を解決しながら、成長していく約束を交わし、新たな探偵の日常が始まるのだった。彼女たちの青春の一ページは、ミステリーの幕を閉じることはない。