昼休みの音楽室は、普段の教室とはまるで別世界のようだ。校内は賑やかな話し声や笑い声で溢れているが、この部屋の中だけは静寂に包まれている。そして、唯一の音はその空気を裂くように響くピアノの音色だ。
私、黒川梨乃は、音楽室の端にあるピアノの前に座っていた。指を軽やかに鍵盤の上に滑らせる。その瞬間、心が弾む。ピアノの音は私の気持ちを素直に表現してくれる。音楽には言葉がないけれど、気持ちを伝える力がある。
「いい曲だね、黒川」
音楽室のドアが静かに開かれ、村上和真が入ってくる。彼の髪はいつもふんわりとしていて、明るい笑顔が私の心に強く残る。私は思わず弾いていた手を止めて、彼を見上げた。
「で、ですわ」
私の口から出た言葉は、やっぱりお嬢様口調だ。和真くんに対しては、特に緊張してしまう。そして、彼の無邪気な笑顔を見ていると、心の奥深くで何かがざわざわしていた。
「何か特別な曲なの?」
彼はまるで私の気持ちを知らないような、穏やかで鈍感な表情で訊ねる。その純粋さに心が触れる。ああ、和真くん。私はあなたがこの部屋にいることがどれほど嬉しいか、知っているのかな。
「いえ、ただ、和真くんのために作った曲ではないですわ」
私は、つい本音が漏れそうになるのを必死に押し殺す。思わず言葉を強調してしまった。和真くんはそのまま、にこりと微笑んで、私の横に座った。
彼が横にいるだけで、心臓が早鐘のように鳴り出す。彼の優しい笑顔や、ふんわりした髪型に目を奪われながら、私は再び鍵盤に向き直る。音楽は私の心の秘密の一部、彼に対する思いを伝える言葉である。
「ちょっとだけ、弾いてみていい?」
和真くんが険しい顔をしながら私に訊ねる。私の心は一瞬、ドキリと跳ねた。これはまさか、私の作った曲を弾くために私に近づいているの?それとも、自分の気持ちを伝えたいということなのかしら。
「ど、どうぞ」
私はぎこちない声で返事をした。和真くんは私の隣に寄り添うように座り、ゆっくりと鍵盤を叩き始める。彼の指先がほんのりと鍵盤を弾く音に合わせて心の奥が温かくなる。
「こんな感じ?」
和真くんの問いかけに、思わず彼の指先をじっと見つめてしまった。音色が優しい彼の心を表しているように感じたな。彼はまるで何かを奏でることを楽しんでいるかのようだ。
「そうですわ」
私は無意識に頷いて、彼に合わせるように歌ってしまった。彼の横で歌うことは、とても幸せな瞬間で、これが世に言う“二人三脚”というものだと認識した。音楽の力、彼との絆を体感することができる。
しかし、和真くんは全く気づいていない。彼の無邪気さが、時に私の心を苦しめる。私のイメージでは、いつも彼は私のことを見てくれていると錯覚してしまうのだ。
「黒川、いい音楽だね」
和真くんの言葉に胸が高鳴る。音楽を通じて私の気持ちが伝わったのかしらと思う一方で、彼が私のことをどう思っているのか想像がつかない。私の心の声は、その一言でさらに大きく揺れ動くのであった。
「和真くんは、音楽が好きですか?」
私が知らず知らずのうちに投げかけた質問に、彼は少し迷った顔をした。
「うん、好きだよ。特にリズムが楽しいやつ」
正直な回答に軽く安心するが、同時にどうしてそうみんなが彼を好きだと思うのか、理解できなかった。私の心の中で嫉妬が芽生えそうになる。
「そうですか。でも私の曲が、和真くん気に入らないかもしれませんわ?」
私の心の声は
「和真くんに喜んでもらいたい」
という強い願望の裏返しだった。そんな思いはすぐに消えて、彼の幸せのためなら頑張ろうと決意する。
「大丈夫、黒川の曲はいつも面白いよ」
和真くんの言葉はまっすぐで、真剣だった。まるで全ての女子の思いを受け止めているようで、私の心はより一層高鳴る。そんな反応が、彼の天然さに対する私の思いを揺さぶる。
「それじゃあ、もう一度私の曲弾いてみますわ」
私はもう一度鍵盤に向き直る。そして、手を動かすことで気持ちを彼に伝えようと必死になった。彼に対する思いは音楽の中にぎゅっと詰まっている。私はそれを表現することで、彼の心に届くのではないかと思ったのだ。
和真くんは私を見守りながら、優しい表情を崩さない。彼の存在こそが、私の音楽を彩る色となる。心の声はついに、真実を告白するように弾けそうになった。
弾いていると、曲想の中で私の想いがどんどん強まる。時間が経つにつれ、私の思いはまるで溢れて止まらないのではないかという勢いをもっていく。和真くんに私の心が届くように、私の音楽が彼の心をグッと引き寄せてくれる。私は祈るように音を重ねていく。
「本当に良い曲だね、黒川」
彼の率直な感想に、私の心はまた一瞬高まった。この言葉を待っていた。心の中の秘密が少しずつ通じ合っている気がした。もしかして、彼にも私の気持ちが伝わり始めているのか。
私の心はきっと
「和真くん」
と呼ばれるだけで温まる。彼の隣で音楽を楽しむ幸せを感じていると、夢中になって時間を忘れてしまった。
そんな時、ふとした瞬間、扉が開く音がした。見慣れたクラスメイトたちが頭を突っ込んできた。
「お、いい音楽だね!これ、いかにも黒川っぽい!」
声を掛けられた私は、少し照れくさくなった。そんな私の隣で、和真くんはただにこにこしているだけだ。関心を持ってくれることが嬉しく、同時に緊張感も生まれてくる。
「同じクラスの和真くんと、一緒に弾いているんだ」
和真くんの存在が、ますます大きくなっていく。彼といると、周りのクラスメイトの視線がどうでもよくなってしまう。自然に笑顔が溢れ、何か大切なものを守っている感覚が出てくる。
しかし、いつも心の奥底で感じていた不安が再び顔を出す。
「彼は本当に私のことを特別に思っているのか」
と。視線が集まるとともに、私の心の奥を通り抜ける重たい自問が出てくる。
周囲の声は
「楽しそうだね」
と響き渡る。私の心の中では暴風雨のように不安が渦巻いていた。和真くんがこの瞬間をどう思うのか、それは非常に気になった。
「あ、ねぇ、音楽室が盛り上がってるって!」
誰かが声を張り上げると、次々とクラスメイトたちが音楽室に入ってきた。私の心の中で、優雅な瞬間が崩れ去る感覚があった。彼らが私の心の中の想いを知りやしないか、不安が過ぎる。
「皆も一緒にやろうよ!」
和真くんが声をかけると、彼は全く気にせず騒がしくなる。彼の隣にいるという事実は、私の心に安堵感を与えるが、同時に彼の周りにはたくさんの友達がいると冷静に考える。
音楽の力がこの瞬間を変えていく。心に広がる不安を自覚しながらも、彼と一緒にいることはとても心地よい。ただひたすら彼の日常を護りたい。彼に夢を見せたい。
「和真くん、どうでしょう?」
私は一瞬、彼に心を打ち明けたくなる。彼のことを思うと、居ても立ってもいられない。天真爛漫な彼だけは、自分しか見えていないのだろうか。
「うん、すごく楽しいよ、黒川」
その瞬間、彼の笑顔が私の心の中を突き抜けた。一瞬で全てを打ち消すような、温かな想いが広がる。彼の言葉は止められないチカラに満ち、私を癒していく。
私の想いも、彼に届くはずだと自信を持って、再び音楽に身を委ねる。周りの声は遠くなり、私の心は高鳴り続け、音楽の中に彼との特別な瞬間を幾度も重ねていく。
次第に心の中の不安を忘れ、和真くんと一緒に音楽を奏でる喜びが支配していく。たとえ自分の想いが重すぎて、彼に届かないかもしれないとしても、私は彼とのこの瞬間を大切にしたい。
やがて、午後の陽ざしが差し込んできて、音楽室を優しく包み込む。この一瞬は、私たちの特別な記憶の隙間に深く刻まれていくのであった。